ブログをやっていると「義務でも仕事でもないところで、なぜ文章を書くのか」と問われることがある。
そんな時、僕は「書くのが好きだからだよー」と当たり障りなく答えるようにしているが、それと同時に感じる寂しさも大きい。
もはや実行に理由が必要なほど、「文章を書く」という行為は普段の生活から切り離されてしまったのだなと感じるからだ。
人は自らの文章を通して、己の人生や考えと向き合うものだと思う。
先ほど、僕が文章を書くのは「書くのが好きだから」と書いたが、そこに含まれるものの幅は広く複雑だ。
それを一度語ってみたくて、今回こうして記事に起こしてみた。
僕が特に「夜」に文章を書くことが多いことも踏まえて、一人語りしていこうと思う。
この先、ポエムアレルギーの方は注意が必要だぞ!
筆を執るなら夜がいい
あてもなく起きている夜には、そのしんしんとした静寂さ故に、いろいろなことが頭の中を巡る。
今日一日の出来事。その中で、嬉しかったこと、悲しかったこと、面白かったこと、物足りなかったこと、楽しみになったこと、不安になったこと……。
一つ一つ思い出しては、砂糖多め、ミルクたっぷりのコーヒーと一緒に、腹の底に混ぜ込んでいく。
そして、少し眠くなって、うとうとして、はっと目がさめると、先ほどまで考えていたこと全部が、さっぱり頭から抜け落ちていることに気づく。
未だ腹に温かいコーヒーよりも先に、すでに体から排出されて無くなってしまったかのように思えて、自分の記憶や感情、思考の刹那さに愕然とする。
うたた寝後特有の冷や汗は、そんな自分自身の危うさと嫌でもリンクして、いつも以上に鳥肌が立ってしまう。
そうして、はたと気付くのだ。
自分の中にうごめくあらゆるものが、この場限りのものなんだなということに。
今後、いくら似た思い、感情を抱いても、それらが100%同じなんてことはありえない。
甘さも苦さも千差万別。今日と全く同じコーヒーを飲めないように、隅から隅まで形が一致するような感情を、この先僕はもう二度と得ることはできない。
真夜中には、そんな危ういものたちが大量に押し寄せてくる。
しかし僕は、それらを特に気にかけることなく、右から左へ、川面を流れるささ舟を眺めるが如く悠長に見送ってしまう。
それがどんなに恐ろしいことかも知らずに。
また同じことを感じられるだろうと、思えるだろうと、明日の自分を無責任に信頼して押し付けて、そうして、結果何も残らない自分を残してしまうのだ。
だから、言葉にしたいと思う。
言葉にして、文字にして、文章にして、この感情を掬い上げていきたいと思う。
そうして、混沌とした真夜中のくるくるから、ただ垂れ流していただけの自分の思いを、感情を救っていきたいと思う。
決意や、意思を、形にしていきたいと思う。
眺めるだけではなく、水面に足を踏み入れて、多少水音を立ててでも、一つでも多くの笹船たちを拾っていきたいと思う。
それが、僕が夜に筆を執る理由なのだ。
そうして集めた笹舟は、眺め直したり、手を加えたりして、その先々まで大切にしていける。新しい自分へと繋げていける。
その過程で、知らぬ間に、自分以外の誰かの川面へと流れていくこともあるかもしれない。
そしていつかは、大海原に漕ぎ出す日も来るのかもしれない。来て欲しいなぁ。
そんな夢も見たりしながら。
夜空に向かって溢れ出る感情をただ垂れ流すのは、もうやることにしよう。それは僕には恐ろしすぎるし、贅沢すぎる。
これが僕が夜に文章を書く理由であって、このブログ『夜行月報』のコンセプトの元となった考え方なのである。
掬いあげた笹舟たちがどんどん増えていくこと、そして、願わくば見知らぬ誰かの川面へと旅立ってくれることを祈りつつ、飲み干したカップを台所へと持っていくことにする。