夜行月報

“夜更かし”から“新しい”をみつけるためのブログ

【仕事と人生】「会社の奴隷」を抜けだしたければ、「学歴」より先に「やりたいこと」を手に入れろ

あなたは人か家畜か

今、労働はかつてない速度で私たちを殺しにかかってきている。

様々な分野で技術が発達し、モノが増え、経済的に豊かになったのにも関わらず、私たちの仕事は一向に楽になる気配を見せない。

外国で日本の「過労死」が報じられたり、『ちょっと今から仕事やめてくる 』や『「死ぬくらいなら会社辞めれば」ができない理由(ワケ)』といった労働に関する書籍が注目を集めることからも、人々がどれだけ労働に疲弊しているかが分かる。

それでも、人々は日々うなだれながら街を歩き、毎朝青白い顔をして「会社に行かなきゃ……」と駅までの道を這いずるように進むのだ。

 

しかし、そんな彼らに「辛いなら仕事辞めたら?」と助言すると、「そんなことできるわけないじゃないか!」と声を大にして反論される。

この矛盾じみた彼らの行動も、しかしよく考えれば当然のものだということが分かる。

なぜなら、私たちは「そう」思うように、この日本で「労働のため家畜」として育てられてきたのだから。

 

 

「いい点」を取るためだけの人生

「勉強して、いい大学を出て、いい会社に入れば幸せになれる」

この日本で今なお信じられている、人生の幸福論の一つだ。

お金と余裕とを沢山手に入れるために、お給料が少しでも高い会社に入り、そこで一生懸命働く。それが人生の黄金ルートであり、揺るがない「幸せのカタチ」。


昔から「いい点」をとることだけは得意だった私は、この価値観を信じるのに何の疑問も抱かなかった。

そうやって親や先生の言うように一生懸命勉強して、結果として偏差値が60を超える、所謂「いい大学」にも入学することが出来た。


しかし、そうした過程を経ていざ大人になってみると、幸せなどどこにもなかった

「みんな頑張っているから」と、「それが社会だ」と言われて日々馬車馬のように働かされ、しかし与えられるのはスズメの涙ほどの給料……。もちろん残業代なんて無し。

時間的な余裕などどこ吹く風で、毎日が家と会社を往復するだけの日々。休みの日でさえ、会社から仕事の連絡が来る。

しかし一度でも「辛い」「苦しい」と声を上げれば、たちまち周囲から「情けない」「みんな頑張っているんんだから」と批難される。

希望をもって進める場所も、逃げられる場所もなく、毎日ただ心をなくした木偶人形みたいに生きる毎日。

「いい点」を取り続けた私が手に入れられたのは、そんな人生だった。

最高のエリートも、脱落すれば異端者

うなだれる男性

同世代で、私よりも「いい点」をとっていた人でさえそうだ。

有名なところで言えば、電通に勤めていた高橋まつりさんがその筆頭に挙げられよう。

学歴も、容姿も、就職した会社もトップクラス。そんな「人生の黄金ルート」を順風満帆に歩んでいたはずの彼女は、しかし、労働の恐怖に押しつぶされて自らの手でその命を絶ってしまった。

驚いたのは、そんな彼女に対して

根性がない

これだからゆとり世代は

もっと働いている人もいる。この程度で音をあげるなんて情けない

と非難する声がかけられた事だ。

正直、聞く耳を疑った。

自ら死を望んでしまうほど追い詰められた人間にかけられた、心無い言葉、容赦ない死人への鞭打ち。

思わず笑いが出てしまうほどの恐怖」とは、こういうもののことを言うのだと思った。

勉強でも、就活でも、「いい点」を取ろうと誰よりもまじめに頑張ってきた彼女は、しかし、一度そこから脱落したことで「死後なお責められる異端者」となってしまったのだ。

 

こうした実情を目の当たりにする中で、私は思う。

この国の人々は、「労働の家畜」にされることに慣れきってしまったのだ、と。

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「自分ではない誰か」のために働く人々

他人のために働く

ハッキリ言うが、この国で自分のために働けている人なんてほとんどいない。

では、誰のために働いているか。妻や子供、家族のため?いや違う。

あなたが務める会社の経営者や、その先にいる株主のためだ

 

この日本は、「資本主義」で成り立っている国だ。

その定義によれば、誰もが金銭などの利益を追求していいし、そのための生産手段を個人保有していい、ということになる。

要は、(法に触れない限り)あらゆる手段を使って金儲けをしていいよ、ということだ。

しかし、実際にそれを実行できるのは、大抵がリスクをとれる、金銭に余裕のある一部の富裕層だけだ。

それ以外は、日々を生きる糧を手にするため、彼らの下で働いてお給料をもらわなければならない。それは実質的には、稼ぎを生み出すための「生産手段」として社長や株主たちに(一定の契約に基づいて)「所有される」ということである。

 

そのような、「所有と労働」の関係において私たちが求められるのは、ただただ雇用者のために懸命に働くことだけだ。

そこでは、「Yes!」とだけ答え、低賃金で、自分の生活さえも犠牲にして仕事だけに取り組む、そういう人間が雇用者にとっては一番都合がよく、実際に評価される。

しかも、契約や法律で守られるはずの個人の権利や尊厳といったものは、建前上は保たれつつも、本音の部分ではあらゆる企業がそれを守りたくないと思っている。というか、実際には守られていないし、現状それがまかり通っている。

そんなバカみたいな社会の「奴隷構造」に対して、私たちは不満を言いつつもそれを受け入れてしまっている。

いや、「そうなるように育てられてきた」といった方が正しいだろう。

「餌をのとり方」を教えられない日本人

餓死する

私たちが社会に出るまでに学ばされるのは、「与えられた環境で、与えられた義務を黙ってこなす力」だけだ。

皆と一緒に授業を受け、給食を食べ、先生の言うことには従って、教科書の内容ををただ覚え、テストでいい点をとる。そこでは「同調と従順」こそが何よりの評価の対象であり、「なんでみんなと一緒じゃなきゃいけないの?」「どうして勉強しなくちゃいけないの?」などと疑問を投げかけようものなら、たちまち問題児扱いされる。

そうして、独創的な考え方や他人と違う意見は持つだけ無駄だということを叩きこまれ、結果として均一かつ自我の無い「空っぽ人間」が生まれる。

 

しかも私たちは、社会に出てからのお金の稼ぎ方を一切教えられていないのだ。(ここでの「金の稼ぎ方」は、「自分だけの力でビジネスをする力」を意味する)

地球上の動物は、独り立ちする前に親や先達から生きるために必要な「餌の取り方」を学ぶが、人間にはその過程がない。むしろ、「餌をとれる人間に仕えるための心得」ばかりが教えられていて、それ以前の基礎的な生存能力をほとんどと言って良いほど継承していない。

 

それもそうだろう。幸せの絶対的価値観である「人生の黄金ルート」では、誰かに雇ってもらい、お給料をもらって生きていくことを前提としている。餌をとる方法を知らなくても、餌を持っている人に気に入られさえすれば問題ないのである。

 

そうなると、社会に出た人間がとるべき手段はただ1つ。

金を獲得する能力を持っている人々のところへ赴き、お腹を見せて、こんなことができますよと芸を披露し、彼らに気に入られるために必死こいて働くだけである。

もしもそこを追い出されてしまえば、餌の取れない人間は食い扶持の確保が出来なくなってしまう。再就職するに越したことはないが、この日本では一度レールから外れた人間に対する対応は極めて厳しいものになる。退職の理由はともあれ、「命令に従順でない人」「奴隷として向いていない人」としてのレッテルを貼られてしまうからだ。

だからこそ、今いる場所にしがみつく。

どんなに不遇な扱いを受け、理不尽な命令を去れようとも、明日を生きるために必死でくらいついて働くのである。

 

こんな事態になったのは、ひとえに日本という社会が「従順で奴隷向きの人間」を量産する教育システムを組み立ててしまったからだ。

親世代が、子供たちに一人で生きるすべを教えず、長いものに巻かれて生きる道筋しか示してこなかったからだ。

私たちは子供のころから、「労働の家畜」となるために社会に「飼育」されてきたのである

 

私自身、新卒で入社した会社の役員に

社員(厳密には従業員)というのは会社のために働くものだ。経営が厳しくなったら、給料をもらわなくても働くのが当たり前だ

と言われた経験がある。

私は驚愕と絶望に打ちのめされたが、同時に「あぁ、社会はこうして階層化されているんだな」とどこか納得してしまったのも覚えている。

その会社には即日退職届を叩きつけ退職したが、私が「自分は家畜として扱われる側の人間だった」と気付くのには十分な経験を与えてくれた。もう感謝しかない

(※余談だが、後に聞いた話では、私と同期の新入社員は私の退職後半年以内に全員退職して、今は一人も残っていないらしい。ざまぁみろ。

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 自分の人生を生きるために

ここまで書いてきたようなことは、実はみんなとっくに気付いていて、だからこそ「しかたない」「そういうもんだ」と言いながら日々の生活を営んでいるのだろう。

自分が家畜だったと気付くまでに費やした時間はもう戻らない。

社会や親、学校が推奨してきたことが、多かれ少なかれ「労働のための奴隷化」のプロセスを含んでいたという事実は覆らないのである。

 

しかし、そんな世の中だからこそ私が言いたいのが

「社畜を抜け出したければ、一つでいいから人生に『やりたいこと』を見つけろ」

ということだ。

要は、「人に飼われる生活を送るのがイヤなら、受動的で目標の無い人生をあらためて、やりたいことを見つけたうえで、一人で「餌をとれる」ように努力しろ」ということだ。

 

特に、未だ若い少年少女には、ここまでに書いてきた残酷な社会の真実を踏まえたうえで、この言葉を受け止めてほしい。

学校の勉強なんて、そこそこでいい。親や先生の言うことなんて話半分に聞いておけ。なぜなら、それは「他人の人生に奉仕する『家畜』としての『いい点』の取り方」でしかないからだ。

その代わり、自分の興味があること、面白いなと思ったことを突き詰めて考えて欲しい。行動してほしい。それをどうすれば、自分の力で「餌を取る」ことにつなげられるか、それをひたすら考えて欲しい。

その上で必要だと感じたら、たくさん勉強して、学びたいことが学べる大学に入ってみればいい。

大切なのは学歴ではなく、「何のために学ぶのか」「学んだことをどう生かすのか」ということだけだ。単に学歴だけ獲得しても、それは権力者たちへ提出する「従順(おりこうさん)の証」でしかない。

それをハッキリさせたうえで、確かな知識と実力とを身に着けられれば、君は飼われるだけの家畜ではなくなる。

自分で餌を獲得しながら、世の中を渡り歩いて行ける。

 

それでも「やりたいことが無い。見つけるのも億劫だ」という人は、長いものに巻かれる人生を選ぶのも一つの選択肢ではあるだろう。

しかし、覚悟してほしい。そうした受動的な姿勢の先に待っているのは、真の意味では他人のために生きる人生だ。

勤務地(住む場所)も、働く時間も、仕事の内容すら選べない。

「いい点」をとることだけを考えて生き、「会社のために身をささげろ」と言われた私のような人生だ。

それは、他人に気に入られるためだけの人生を歩むということであり、その人らに自分の生殺与奪の権利を預けるのと同じことだということだ。

そういったことを今一度考えてから、将来の道を決めて欲しい。

 

もちろん、若者以外の人々にだって家畜を抜け出す道はある。

もしも、あなたの人生にやりたいことがあって、しかし日々の労働で心にも身体にも余裕がない、というのなら、今すぐその仕事を辞めてやりたいことをやるべきだ。

実行は早い方がいい。「家畜で終わる」人生がイヤなら、興味のある分野で「自分で餌をとる」ための力を今から身に着けることが大切だ。

1,2年の間、それに向けて全力で努力すれば、一部の分野を除いて大抵のスキルは身につく。

そうはいっても「お金が……」「家族が……」という人もいるだろう。そのあたりは、背負うリスクと自分の大切な物とを天秤にかけて決めればいい。誰だって失いたくないものはある。

しかし、最後に考えて欲しいのは、それがまぎれもない「あなたの人生」だということだ。

不平不満を垂れ流した挙句、後悔にまみれて列車に飛び込むような結末だけは、どうか迎えないで欲しい。

私の人生

口ではどうとでも言えるので、この章のまとめというかオチとして、自分自身のことを白状しようと思う。このブログでも、初めて話す内容になる。

 

私は前述した新卒入社の会社を退社してから半年たつが、未だに再就職していない。

それどころか、バイトもせず、学生時代から貯めてきた貯金を切り崩して生活する毎日を送っている。

なぜなら、やりたいことが見つかり、それで食っていくための知識と力を蓄える期間として今日を投資しているからだ。

 

そうするに至った理由の一つとして、前の会社でのトラウマから、会社というものを信じられなくなったというのが一つ挙げられる。

私がいくら身を賭して働こうとも、会社は私の人生のことなんてなんとも思っていなかった。

過労で体や心を病んで働けなくなってしまっても、素知らぬ顔で解雇通知を出すだけだ。(実際、同期の一人はそれで辞めた)。

ある日突然バッサリ切られれば、餌を得るのに依存していた私はすぐに路頭に迷うだろう。そうなったからと言って、会社は私のその後の人生に責任を負ってくれるわけでもない。

そういうことを、嫌というほど思い知らされているのだ。

 

2つ目の理由として、私の今の市場価値が限りなく低いことが挙げられる。

学歴は多少あっても、それ以外の資格などほとんど持ち合わせていないし、なにより「新卒入社の会社を1年持たずに辞めた不良品」だ。

「欲しい」という会社なんてそうそうないだろうし、再就職できたとして、前職からの待遇の改善はほとんど望めないだろう。

一度正規のレールから外れた私に、社会が用意してくれる居場所はあまりにも少ない。

「まず会社で知識と経験を得てから独立~」なんて話も耳が痛くなるほど聞かされたが、年を取ってからの独立する方が明らかにリスクが高い。失敗すれば、それこそ足場ごと奈落の底へ真っ逆さまだ。

ならばいっそ、若さを理由に許される時間のある限り、精いっぱいあがいてみようと思ったのだ。

 

若いうちの時間を無駄にして、バカみたいだと思う人もいるだろう。

しかし、今の私からすれば、この「人生のスタートアップ」の時期を、やりたいことに費やさずに、他人のための労働に費やすことの方がおかしいように思える。

若さという宝物を、自分のために使わないのは愚かなことのように感じたのだ。

そして今、私は毎日アホみたいにプログラミングを勉強したり、ブログを書いたりして、必至に、自力で餌をとる方法を探している。

 

もちろん期間は有限だし、成功する確率は私が思っているほど高くないのだろう。

私の努力が足りず、時間だけを浪費して、社会からもっともっと「いらないモノ」扱いされる時も来るかもしれない。

否応なしに、他人の人生のために働くことを強いられる日々が来るかもしれない。

しかし、それでも、私の人生だ。

そのくらいの覚悟と気概をもって、この日々を充実させていきたい。

 最後に:

今回、今の自分における一つの答えとしてこのような記事を書いたのは、以下の二つの記事に触発されたからだ。

yokogamiyaburi.jp

nyaaat.hatenablog.com

特に、『Blog media  横紙やぶり』さんの「サラリーマンが資本主義を勘違いしている論考」という記事には、内容的にも、かなりの衝撃と影響を受けて……というか、文章構成の5割ほどを踏襲させてもらっている。(許してください!)

(※この横紙やぶりさん(以下、敬意をこめて“ 横紙さん ”とします)のブログは、先月に設立されたばかりの、しかし今後爆発的影響力を持つことが確定しているようなブログなので、皆さんも早急にブクマしに行けばいいと思います。) 

 

そして、この記事に対してどんな感想を抱く人がいるかというのも大体想像がつく。

おそらく、「否定」と「批難」で溢れかえることだろう。

「一生懸命働く人をバカにするのか!」とか、「ニートが何言ってんだか」とか。

加えて「うまくいくわけない」とか「社会を甘く見すぎ」だという言葉も頂くだろう。

それもそのはず。今企業の奴隷として働いている人たちにとって、私はその人らの価値観を根底から否定する存在であって、そして大多数はそちら側の見方だ。

社会的に見れば、異端なのは私で、おかしいのも私。それは変わりようのない事実だろう。

 

しかし、そんな人たちに対する献花として、横紙さんの記事のこの言葉を贈りたい。

サラリーマンだって馬鹿ではありません。自分たちが、檻の中で有能な社畜となるべく飼育されていたこと。自分たちが、本当は豚やキャベツと同じような種類の生き物であること。これらのことを、心の底ではちゃーんと知っているのです。

 でも、こんなこと言われて、認められますか?豚やキャベツにだって心があります。自分たちが檻の中にいて、子どもの頃から騙されていたなんて思いたくない。

だから、彼らは自分たちの価値観を守ろうと必死です。檻から出ようとする者、檻の外にいる者は、存在自体が彼らの価値観や存在性の否定になります。

だから、他のあらゆる価値観を認めません。例えば、起業しようとする者、音楽や文学など芸術で成功しようとする者、芸能で成功しようとする者などです。

そういう人たちを、まだ芽が出ないうちから、あるいは何か失態を犯したら、ここぞとばかりにボコボコにして、自分たちがいる檻にひきずりこもうとします。これは、嫉妬しているのもあるのでしょうが、自分たちを守っているだけなのです。

「奴隷の矜持」ならいくらでも持っていただいて結構だ。

しかし、檻から出よとうと努力する者達を貶めるような言葉を発するのはやめていただきたい。

そしてその言葉が、あなた自身により強く「奴隷の鎖」をはめる事になるだけのものだと、早急に気づいて欲しい。

 

横紙さんはこうも言っている。

「優秀な人であろうと底辺であろうと、雇用関係から抜け出そうとせず、本当にやりたいことなんてないし、見つけようともしないし(人間、本当にやりたいことがあったら、どんな条件下でもやろうとする)、違う考え方の人間を認めないから、日本は少しづつ衰退していっているのではないだろうか」と私は思います。

 

先ほど、「資本主義に従って、金儲けに挑戦できるのは実質富裕層のみ」と書いた。

しかし、ITをはじめとした各種技術の発展により、今やパソコンがあれば個人でも「餌をとる力」を付けることが出来るようになった。

それはクラウドソーシングをはじめとして、ブログやアフェリエイト、各分野におけるデザインや、今話題の「YouTuber」なども、本気でやるなら私は十分に「自分で餌をとる力」になると思う。(他人に迷惑をかけている人はもちろん論外だが)

しかし多くの人は、知人が「YouTuberになる!」などと言いだしたら、即断で「やめておけ」というだろう。

私はこれが分からない。やりたいことを腹に据えて、「自分の力で餌をとる力」を付けようとする人を、なぜ止めようとするのだろうか。

なぜ、同じ小学生の夢でも、サッカー選手や野球選手は良くて、YouTuberはダメなのだろうか。

その根底にはやはり、まやかしの「人生の黄金ルート」の存在と、自分と違う考えを認めない、日本人の寂寥な心があるように思う。

 

また、大金を稼ぐのを悪いことのように囁く人々の存在もある。

冒頭で述べたように、日本は資本主義社会だ。ここでは金儲けのためのあらゆる手段が許されるし、それは彼らを雇っている人間たちが平気で行っていることだ。

それなのに、「金儲けは汚い」という価値観を同じ労働者たちの間で共有しあおうとする心には、自分の不幸や不満を他人にも強要しようという下劣な感情が渦巻いている。

 

みんなで同じ苦しみを共有して、そこから抜け出そうとする人々の足をみんなで必死に引っ張り合う。

そんな夢も未来もない社会はもうやめにしよう。

苦労を神格化し、他人に押し付け強要する日本の文化が、私は大嫌いだ。

 

 そして、私は進む。

 

追記:1

もちろん、社員の人生と頑張りを貴ぶ殊勝な会社があることも事実だ。

そこでは、過度な長時間労働もなければ、社員のプライベートも尊重され、キャリアを積むための教育もしっかりこなしてくれる上に、十分な報酬を与えてくれるだろう。そこでなら、会社における自分のための労働、という価値観も芽生えるというものだ。

しかし、そういったケースはあまりに稀であり、そして実際に入ってみないとそうであることは分からない。

全ての会社がそこと同じような社会なら、そもそもこんな記事など書いていないのである。正直、そこにいる人たちがめちゃくちゃ羨ましい。

だから、そういった会社にたどり着けた人には、そこで働くことを大事にしてほしい。

労働に殺される人ばかりではないという一つの証明として、そこにいあり続けてくれることを切に願うばかりである。

 

追記:2

こういう人たちがもっと増えたらいいと心から思う。

そして、私もそれに続きたい。

www.itmedia.co.jp

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