夜行月報

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男だけど「女子力」という言葉が死ぬほど嫌い

女子力という呪い

今、「女子力」という言葉が世に溢れている。

女性誌を覗けば必ずどこかにこの単語が並んでいるし、テレビではジャンルを問わず数多くの番組で取り上げられている。また、ひとたびネットで検索すれば約2700万件ものページがヒットする。

もはや日常で見聞きしないことの方が珍しい状態だ。

このようにすっかり言葉としての市民権を得た「女子力」であるが、私はこの言葉が大嫌いである。

 

なぜなら、この「女子力」という言葉は、個人の行動を制限し、求められている「男女平等社会」の構築を妨げるものでしかないからだ。

 

「女子力」とは何なのか

「女子力」の定義

『女子力』なんてクソ!ハゲ!〇ね!」という本題に入る前に、そもそも「女子力」とはどういったもののことを言うのか、という基本的な部分に目を向けていきたい。

 

・・・・・・そう思って調べてみたのだが、どうやら現在「女子力」という言葉についての明確な定義は存在しないようだ。つまり、「口にする人によって意味が異なる」というやっかいな状態にあるということである。

ただ、それが使用されている文脈から推察すると

  1. ファッションやメイク、体形など、美と健康への関心度 
  2. 料理や洗濯、整理整頓といった家庭的なスキル
  3. SNSを活用した、オシャレでキラキラしたライフスタイルを演出・発信する力
  4. 気遣いが出来る、優しい、といった従来の「日本的女性」らしさの度合い

これらが、いわゆる「女子力」に当てはまるものだと考えられる。

 

3が少し分かり辛いかもしれないが、

「スタバの新作フラペチーノの写真を、毎回欠かさずFaceBookに投稿する根性」

「それとなく男の影を感じさせるような説明文と共に、ハワイで撮ったパンケーキの写真をTwitterに投稿するしたたかさ」

などと言い換えれば理解しやすいだろう。

要するに、様々な側面から見た「女性としての魅力」の総称が「女子力」と呼ばれるものの正体なのだ(と、私は考えている)。

「女子力」はいつ生まれ、どう広まったのか

この「女子力」というワードが最初に登場したのは、講談社が刊行している美容雑誌「VOCE」内で連載されていた「美人画報」(1999年12月号~2001年7月号)であると言われている。

『働きマン』などで有名な、漫画家の安野モヨコ先生の作品だと言えば伝わりやすいだろうか。

この作品の中では、「女子力」とは美しさのこと、そしてそのことで男性から相手にされる「女性偏差値」のことを指していた。

現在の様な多義性を持つようになったのは、人々の間に広まった後のことのようである。

そして2009年、「女子力」は同年の新語・流行語大賞にノミネートされ、広く人々の知るところとなった。

現在では、私立中学大学の入試案内にもその姿を見ることができるなど、誕生から現在にかけての社会への浸透率は恐ろしく高い。

「女子力」の意義

このような経緯を経て広まった「女子力」は、一般的に高いことが望ましいとされる。

「女子力」が高いことは、それすなわち女性として優れているということであり、同性、異性問わず一目置かれることになるのである。

つまり、女子力が高いと周囲にちやほやされるのだ

「凄い!可愛い!憧れちゃう!」

そんな言葉を浴びるため、女性たちは今日もオシャレなカフェに通ってスマホを掲げる。

 

「女子力」という言葉が嫌いだと書いたが、女性たちが己の魅力を高めようとしていること自体を非難したい訳ではない。

綺麗で気の利く女性が世に増えることは、男の私としても大変喜ばしいことだ。美と健康を追求する全ての女性に、日々ますますのご健勝を祈るばかりである。

そうではなくて、ここで私が問題視しているのは、この「女子力」という言葉の内に、性差を強調し、男女それぞれの行動を規定・制限する魔力が潜んでいるということである。

そのせいで、多くの人々が己の在り方や価値観に不安を抱えながら生きることになるのだ。

どういうことか、次から詳しく述べていく。

さぁ、ここからが本題だ。

「 女子力」の呪い

「女らしさ」という呪縛

「女子力」が苦しめている人達の筆頭は、何を隠そう、それを求める女性自身だ。

 

先ほど、「女子力」の正体を、様々な側面から見た「女性としての魅力」の総称と表現したが、世間ではこれを「女性らしさ」という言葉に置き換えることが多い。

ここで言う「らしさ」とは、人々がある対象に対して期待する在り方のことだ。

子どもらしくあれ、男らしくあれ、と一方的に叫ばれるこれらの言葉は、時として対象の行動や選択に著しい制限を設けることになる。(例:子どもらしく外で遊べ!⇒読書の禁止)

つまり、「女子力」という言葉は、女性たちに様々な価値感や行動規範を「期待」と称して押し付けるものになるということである。

 

そして、その期待に応えないでいると、

 

「女なんだからもうちょっと部屋きれいにしろよ」

「女なのに旦那さんに弁当作らないの?え、共働き?関係ないよ」

「女の子なんだから、もう少し気遣いできる様にならないと結婚できないよ?」

 

……などと、「女らしさ」にこだわる人たちから非難の言葉を投げかけられることになる。

もちろん、これは単なるジェンダー・ステレオタイプであり、「女はこうあるべき!」という思い込みや偏見の類のものでしかない。

世界的に男女平等が叫ばれている現代では決して推奨されない考え方である。

 

しかし、「女子力」という言葉がここまで広まったことで、そうした考えがにわかに肯定されるようなコンテクストが生み出されてしまった

「女子力」という言葉が、その内に含まれる要素を「女の領分」として囲ってしまったことで、前時代的な性役割の価値観を掘り返してしまったのである。

 

そうして掘り返された価値観は、性別によって各人の行動を強制・制限する枷となる。

それは、性別にかかわらず各々が活躍できる「男女平等社会」の到来を遅らせるばかりか、心無い性差別や誹謗中傷の種となってしまう。

「女子力」は、私たちが思う以上に社会的な影響力のある言葉なのである。

 

「女子力」とは 女性達を特定の型に縛り付ける呪いなのだ。

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「女子力」は、男性の行動も制限する

「女子力」による呪縛に苦しんでいるのは女性だけではない。男性もまた、この呪いの言葉によって生き方を制限されている。

  

例えば、男性が一人でオシャレなカフェに通ったり、美容に気を使ったりすると、どこからともなく「男のくせに女々しいやつめ」という批難の言葉が飛んでくる。

酷い時には、「キモい」「引くわ……」などといった嫌悪感むき出しの悪口まで浴びせられる。

なぜなら、それらは「女子力」に定義された「女らしさ」の要素であり、通常男が嗜むモノではないと思われているからだ

 

特徴的な例を一つ挙げよう。

Google検索で「女子力 男」と入力すると、先頭に「女子力男子の特徴~ドン引きされないギリギリライン10選」というページが出てくる。(2017年5月27日現在)

この記事では、「女の領域」に精通した「女子力」が高い男子を「女子力男子」と称し、彼らの性質を紹介するとともに、しかし「いき過ぎるとキモがられちゃうぞ☆」という警句を発している。

このページからは、性別の「らしさ」の枠組みから、個人の行動や趣味嗜好を制限する考えというのが非常に良く見て取れる。

「女子力男子」などと言う言葉からは、女のまねごとをする「男らしくない」男性を、どこか冷ややかに揶揄するようなニュアンスさえ感じられるだろう。

ちなみに、男性がデザートに詳しかったり、家事ができることは「ギリギリセーフ」であり、日焼け止めクリームを使用することは「ドン引き」にあたるらしい。

 

このように、「女子力」は「女らしさ」を規定すると同時に、それと対比的な「男らしさ」も定め、個人の行動を強制・制限してしまう。

そうして、男性側も性役割的な価値観から身動きが取れなくなってしまうのである。

 

「"  女子  ”力」という、性別をもろに冠したこの名称も問題であろう。

それによって「女の領分」「女のためのもの」として強く印象付けられてしまった物事に、男性はうかつに近づくことが出来なくなってしまう。

たとえ勇気を出して踏み込んだとしても、社会的な評価やイメージから、やましさや引け目やを感じてしまうのである。

 

私は男だが、オシャレなカフェに行ったり、凝った料理をすることが大好きな人間である。休みの日には彼女と相談しながらスイーツを食べに行くし、気が向いた時には家でお菓子も作る。

しかしこういったことを公言すると、表だった否定こそされないものの、やはり「変わったヤツだ」という印象を持たれるのである。(くそっ、くそっ!)

これらは全て、「女子力」という言葉が、特定の行動に「女らしさ」という属性を付与したことに起因している。

ケーキが好きだろうが料理が趣味だろうが、本来それは性別に左右されること無く認められる個人の自由な趣味嗜好であるはずだ。

しかし、性差を強調する言葉によって人々に印象付けられた「らしさ」のイメージがそれを許さない。

「女子力」などと言う言葉は、個人の価値観や多様性を認める社会の実現を妨げるものでしかないのだ。

「女子力」は男性の家庭参加を阻む

今、世の中では男性の家庭への参加が強く望まれている。

旧時代的な「男は仕事、女は家事」という性役割的価値観が見直され、仕事も家事も、子育てだって男女が協力して行う世の中になってきているのである。

これが進めば、男女それぞれが、性別に囚われない幅広い生き方を選択できるようになるだろう。

しかし、ここでもまた「女子力」がその邪魔をするのである。

 

先ほども書いたが、「女子力」という言葉は、掃除や料理などの家事に「女らしさ」という属性を付与してしまう。

それは、男性が家庭内のいろいろをこなしても、それが評価されるのは「女性らしさ」という軸の上でのみだということを意味する。

すると、家庭に積極的に参加すればするほど、「女性以上に女性!」「女子力高い!」「女子力男子!」などと、男性からしたら褒められているのか揶揄されているのか分からないような評価ばかりが高まることになる。

また、「男らしさ」の価値観に囚われた人々から「男のくせに女の真似事をして、情けない」と非難する声もかけられるだろう。

 そのような状況では、男性の家庭参加へのモチベーションが高まるわけがない。

 

性役割的な垣根を取り払うことが大事だと聞いて家庭に参加したのに、やればやるだけ「女の領域で頑張っている人」として見られ、時には「男らしくない」と非難される……。

それにやり過ぎると、「女より上手くやるのはやめて、妻の私のメンツが立たない」なんてけん制されて、やらないならやらないで「家事を女の仕事だと思ってるの?女性差別!」とか言われるし……

もうほんと、『何なのだ、これは!どうすればいいのだ?!』ってって感じですよ……

このようにして家事に対するネガティブなイメージが積み重なれば、世間が求めるような男性の家庭参加はいよいよもって達成されない。

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「女子力」が家事の「女性らしさ」を強調し、男性の家庭参加を阻んでいる

これは「女子力」が家事を「女の領域」として定めてしまったことから起きた現象だ。

もしも、「女子力」という言葉が存在せず、代わりに「人間力」や「生活力」といった性別ラベルの貼られていない評価基準で家事が評価されていれば、ここまで酷い事態にはならなかったように思う。

 

「女子力」以外では、「イクメン」や「オトメン」といった言葉が事態に拍車をかけている。

家事や育児に積極的な男性にこのような言葉を当てはめる事は、それ自体を「特異なもの」「イレギュラーなもの」として特別視することと同じだ。

しかし、男女の平等な家庭参加を求めるならば、どちらが何をするにしても、それが「普通」「当たり前のこと」として認識する必要があり、一方を特別扱いすることは間違っている。

「イクメン」や「オトメン」といった言葉を用いるのは、「未だ性役割的な価値観を基準に世の中を見ていますよ」と言っていることと何ら変わらないのである。

  

専業主夫が一向に増えないのも、このような理由によるところが大きいのだろう。

家庭内の物事を男女が協力して行う未来を目指すならば、それを「女性の領域」とする「女子力」や、家事をする男性を特別視するような言葉は邪魔でしかないのだ。

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なぜ 「女子力」はここまで定着したのか

ここまで述べてきたとおり、「女子力」は、性差を強調することで個人の生きる幅を狭めたり、男性の家庭参加を阻害したりと、まったくもって良いところがない言葉である。

しかし、現実には多くの女性がこの言葉を口にし、結果として市民権を得るまでに至っている。

「女らしさ」の強制にも繋がりかねない「女子力」という言葉を、なぜ女性達はここまであっさりと受け入れたのだろうか。

私は、そこに以下の3つの理由があるように思う。

理由1:男ウケけがいい

第一の理由として、「女子力」が異性へのアピールに使いやすいことが挙げられる。

 

女性としての魅力」を意味する「女子力」を高めることは、そのまま「女としてのレベルの向上」を意味し、それは異性に対するポジティブなアピールとして利用できる。

また、「 "女子 "力」という名称は、セクシャルな魅力に関わる要素だということを間接的に想起させるため、恋愛に関して回りくどい日本人にとって非常に使い勝手がよい。

そして男性も、「女子力」が高いと周囲に評価されている女子には、比較的単純に良い印象を持ちやすい。

 

このように、男性にアピールするための「女らしさ」をあれこれを詰め込むための「箱」として、「女子力」という言葉は大変都合が良いのである。

理由2:マウンティングに用いやすい

二つめの理由として、「女子力」が女同士の戦いに用いやすいということがある。

 

人は他人と比べたがる生き物だが、特に日本人女性のそれには目を見張るものがある。

私も大人になってから知ったのだが、「女性社会」における女同士の優位性の奪い合いは、怖いを通り越して「エグい」。

陰口やマウンティングによって、日々互いを踏み台にすることに躍起になっている女性たちがそこら中にいるのである。あぁ、くわばらくわばら。

 

そんな彼女らにとって、「女子力」は今や自らの優位性を示すためのツールとして必須のものとなっている。

何度も言うが、「女子力」は「女性としての魅力」の総称だ。

ファッションセンスや料理の腕前、それらをアピールしてゲットした素敵な彼まで……。あらゆる「女らしさ」を詰め込んだ女としての総合的なパワーが女子力である。

そんな、女の戦闘力である「女子力」が高いと評価されれば、それだけで他人の上に立つことができる。

女として優れていると、圧倒的な優越感に浸れるのである。

特筆すべきは、「女子力」を持ち出せば、女性なら誰でもその比較の土俵に引きずり出せるということだ。

マウンティング大好きな女性達にとって、ここまで分かりやすく利用しやすい指標は他にないだろう。

こうした理由から、「女子力」は女性達に受け入れられたのだと私は考えている。

 

しかし、競うのに便利な指標を手に入れたからといって、他人といちいち比べて、勝った負けたを繰り返す毎日が楽しいものだとは私は思えない。

そんな人生は息苦しいだけだ。

女性達にそんな毎日を強いることになる「女子力」と言う言葉は、結局のところ、私たちに不幸しかもたらさない悪魔の言葉なのだと改めて思う、今日この頃である。

理由3:「女性の領域」の獲得に便利

これは極端な持論だが、女性は「女らしさ」を突きつけられることを嫌いつつ、しかしどこかで「女だけの領域」を求めてもいるように感じる。

カフェやスイーツなどを女性特有の分野とし、自分たちだけで楽しみたいと思っているのである。

そのために「女子力」という言葉は都合がいい。それで囲ってしまえば、その分野を「女性の領域」として設定でき、男性を自然と遠ざけることが出来るからだ。

自らに「女らしさ」という呪縛を課すことになったとしても、自分たちだけのフィールドを作りたい……。

そんな逆説的な女性の欲求が、「女子力」という言葉を受け入れてしまった要因の一つなのではないかと私は考えている。

 

もちろん、こうした欲求は男性にも共通するものがある。

車やバイク、時計などを「男の趣味」とし、「女はすっこんでろ」と息巻く人は多い。

「異性の目が入らない場所」を作りたいという気持ちは、男女問わずある自然な欲求なのかもしれない。

 

 

以上が、私の考える「女子力」が女性たちに受け入れられた理由である。

もちろんこれらが全てではなく、もっと複雑な理由が様々潜んでいるのだろうとも思う。

しかしどんな理由があったとして、もたらされるデメリットのことを考えると、「女子力」ということばをそんなに素直に受け入れてしまって大丈夫なの?と私は思わずにはいられない。

まとめ

以上が、私が「女子力」という言葉が大嫌いな理由である。

ハッキリ言って、こんな言葉を使い続けても良いことなんて一つもない。

意識すればすればするほど、個人の人生の幅を狭めるだけである。

まさに「百害あって一利なし」だ。

 

私と同じように「女子力」を恨んでいる人で、たまに

「なんで女性だけ『女子力』とかいって『女らしさ』を求められるの?そんなの不公平!男性にも『男子力』を作るべき!」

という人がいるが、それは断じてオススメしない。

それは男女間の性差をより強調し、互いの人生の自由度を下げてしまうだけだからである。

それなら、「女子力」という言葉を使わないことを周囲に勧めていった方がよっぽどいい。

ここまで読んでくださった読者諸氏なら、この意味が分かるはずだ。 

 

最後に、男性の家庭参加と「女子力」について少し加えておきたい。

男性を家事に参加させたいのなら、

料理にしても洗濯にしても、それらを「女子力」と一まとめにするのではなく、「料理力」や「洗濯力」などとして個別に取り上げるべきであると私は考える。

そうした「性別」と切り離した言葉で家事の要素1つ1つを独立させれば、その領域へ男性も参入しやすいし、なにより女性側が「女らしさ」と性役割の観点から責められることもなくなるのである。

「そんな言葉だけ変えても……」と思う方もいるかと思うが、言葉の力や影響力をなめてはいけない。言い方や名称が変わることで、印象ががらりと変わる物事が世の中にはごまんとあるのだ。

 

今も全国各所で猛威をふるう「女子力」であるが、いくら考えても私はこの言葉に肯定的な意味合いを見出すことが出来ない。

もし、これを読んだ方の中に「いやいや、『女子力』にもいいところはあるよ!」という方がいたら、ぜひぜひ教えていただきい。

とりあえず今は、「女子力!女子力!」と喚いている個人やメディアに対して、私は嫌悪感しか抱くことが出来ないのである。

 

それでは、今回はこのへんで。

ではでは、またまた。